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長坂橋の戦い 三国志小説「夏侯覇仲権」18話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




夏侯惇は張飛の軍勢に構うことなく、真っ直ぐに兵を突撃させた。

既に曹純・文聘が兵を進めていたが、簡雍・糜竺・糜芳の抵抗で足止めをされていた。

「覇!まずは中央の簡雍隊を集中攻撃せよ!」

指示を受けた夏侯覇は簡雍隊にぶつかる。

ただでさえ兵力に乏しいのに一点攻撃を受けてはたまらない。

簡雍隊は支離滅裂になった。しかし、劉備本人の姿はない。

「覇は糜芳に当たれ!わしは糜竺に当たる!よいか、劉備がいるかいないかを見極めよ!

姿がなければ軍を返してすぐさまこの先に突撃するぞ!」

夏侯隊は二手に分かれ、別々の相手に当たった。

糜竺も糜芳も大した相手ではなく、次第に夏侯隊の勢いに押されてゆく。

「惇将軍!あそこに張飛が逃げてゆきますぞ!」

部下の声を聞いて夏侯惇が先程の中央の陣を振り向くと、

そこには見覚えのある虎髯巨躯の男が蛇矛を引っさげて曹軍を斬りまくっている。

そして長坂橋の方角に向けて真っ直ぐ逃げて行った。

「おう、あの方向に劉備はいるぞ!我が軍は張飛を追撃する!」

すぐさま夏侯覇を呼び戻すと、夏侯惇は長坂橋へ向かった。

そこでは文聘が敵兵を薙ぎ倒していた。

「文聘殿、力添えいたす!」

文聘軍に合流した夏侯惇は敵兵の掃討に集中した。

劉備の首を討つにしてもまずは敵陣から崩さなくてはならない。

だが、逃げてきた劉備軍の兵が合流して壁を作る。

中央にいた糜芳隊も揃って引き上げてきた。

「間違いないぞ、劉備本隊はこの先におる!者ども、全力で前面突破じゃ!」

夏侯惇軍は必死で敵兵を押し退ける。

劉備の首を狙っているのは夏侯惇だけではなかった。

先着していた文聘は、後手の夏侯惇に手柄を奪われてなるものかとばかり

長坂橋へと強引に進んで行った。

それを見た夏侯惇は舌打ちをする。

慌てて夏侯覇が突撃を進言するが、こう言ってそれを遮った。

「文聘では張飛に返り討ちされるのが関の山だ。安心せい、劉備を討つのは我々だ!」

夏侯惇は腰をすえて敵兵掃討に取り掛かる。

敵陣という敵陣を打ち破ると、文聘の後を追った。

すると、長坂橋の手前で文聘軍が立ち止まっていた。

「――夏侯惇将軍、ご覧あれ。

橋上にいるのは張飛でござるが、対岸の林には伏兵の気配がある。

先程丞相に報告の伝令を出したところです。

つい今しがた敵将趙雲がこの先に逃げて行ったところを見ると

劉備本陣もこの先に違いないでしょうが、どうも様子がおかしい。しばしお待ちくだされ」

見れば、長坂橋の上で単騎立ち塞がっているのは張飛である。

そして、橋を越えた雑木林からは砂塵が立ち上がっていた。

少数の兵であれば砂塵も抑えられようが、

これがまとまった数の伏兵であれば抑えきれないというもの。

そもそも、いくら勇猛の士とはいえ張飛がたったの一人で待ち構えているのは腑に落ちない。

長坂橋は二人並んで通るのが精一杯の幅しかなく、張飛を避けて通ることはできない。

河を渡ろうにも、急流に遮られて通りようがない。

仕方なく夏侯惇も兵を止めて曹操の到着を待つことにした。

文聘の報告を受けた曹操は先陣まで馬を進めた。

夏侯惇と文聘を従え、長坂橋前までやってくると状況を見て言った。

「軍師諸葛亮が授けた虚実の謀かもしれぬ。

だが、慌て者の張飛ならば隙を見せる可能性がある。しばし様子を見ようぞ」

長坂橋上の張飛は言葉を発せず、仁王立ちを決め込んでいた。

しかし、曹操の姿を見つけると頭上で一丈八尺(約四百十四cm)の蛇矛を

大きく振り回して竜巻のような一喝を発した。

「燕人張飛これにあり!!!曹操、かかって参れ!!!」

劉備や張飛が生まれた涿郡は北方の燕国に含まれる地方であり、

寒暑が激しい気候で生きる北方の人は

温暖な南方地域の人よりも一般的に荒々しい気性で、勇猛であると思われていた。

張飛はその通念を利用して己の名に燕人を冠したのだ。

加えてこの大喝である。張飛の武勇は誰もが知っている。

あの関羽がことあるたびに自分より強いと口にしていたのがこの張飛である。

張飛の一喝だけで、曹操軍の間には重い澱みが生じた。

その空気には、自分ではない誰かが早く張飛に撃ちかかればいい、

という無責任な意味合いが含まれていた。

死を恐れぬ戦士たちでも、怖いものは怖いのだ。

曹操は退却を命じたかった。この戦いは既に勝利している。

劉備は討ち取っていないにしても、この先でいくらでも機会はあるのだ。

窮鼠猫を咬むで、追い詰められた劉備は何をするか分からない。

顔良をたったの一撃で葬った関羽の姿は、今も曹操の脳裏に焼き付いていた。

関羽・張飛・趙雲が命を捨てて自分一人を狙って突撃してきた時を想像すると

さすがの曹操でも身震いがする。

これ以上無理に追い詰める必要はない。

だが、ここで逃げては張飛一人に怖気づいたことになる。

曹軍の総帥として簡単に選択できることではない。曹操は躊躇した。

「――曹操軍に武人はいないとみた!!さっさと都へ帰れ!!」

張飛はなおも竜巻を発して、曹操軍を威嚇した。

曹操は退き鐘を打たそうと思い、横の夏侯惇へちらりと目で促した。

その時、曹操の真意を取り違えて飛び出した者がいる。

夏侯惇の隣にいた夏侯覇仲権であった。

「待て!」

「止まれ、覇!」

曹操と夏侯惇は制止の声をかけた。

だが、夏侯覇は真っ直ぐ張飛に突進して行く。夏侯覇の長坂坡駆けである。

――夏侯覇の胸中は複雑であった。

自分には先陣を任された将としての責務がある。

劉備を討ち取るのは夏侯惇軍だ。それを妨害する者は誰であろうと斬る。

張飛の恫喝によって曹操軍の士気は半減したといってもよい。

それを立て直すべく、曹操は夏侯惇に目で攻撃を催促した。

張飛は人龍である。

それを自分は知っているし、個人的には張飛の武勇を尊敬すらしている。

だが、この場は自分が行くしかない。

夏侯惇軍の先陣は己が務めているのだ。それが将として己に課せられた責務である。

その奥にはもうひとつの訳があった。

そう、夏侯覇にはこの男に玉思が奪われたという嫉妬と羨望があったのだ。

こいつさえ倒せば、こいつさえ倒せば玉思を取り戻すことができる。

夏侯覇は心の奥底でそう思った。

今まで夏侯覇は戦いに私心は挟んだことはない。こんな想いは全く初めてのことであった。

惜しむらくは、曹操の意図を取り違えているところである。

曹操が夏侯惇に目配せをしたのは退却を呼びかけようとしたからである。

何も夏侯惇に攻撃を指示しようとしたわけではない。

それを突撃の催促と受け取り、ましてや張飛相手に

夏侯覇が単騎立ち向かおうとする必要などどこにもなかった。

曹操も夏侯惇も制止を呼びかけたのに夏侯覇はそれを無視した。

曹操が以前より言っていた通り、責務とは勇気と無謀の取り違えではない。

あぁ、戦場で生きる武人たちには己の武勇知勇が全てである。

ただ、人生の大きな流れは時としてその中に異質なものを混ぜることがある。

この時の夏侯覇にはそれが取り付いていたのだ。

玉思を想う気持ちである。

普段の夏侯覇ならばこんなことはしなかっただろう。

しかし、この時の夏侯覇は明らかに、その異質なものによって狂わされていた。

――猪突猛進、夏侯覇は槍を構えて突撃した。

「匹夫!!」

人龍が咆哮した。ぶうん、という轟音を立てて蛇矛が振り回された。

その黒い竜巻のような音に肝をつぶした夏侯覇の馬は、

突然前足で立ち上がって背中の主を宙へと投げ出した。

動転のあまり夏侯覇の馬は自ら河へと飛び込み、流れに呑まれた。

激しく地面へと叩きつけられた夏侯覇は失神していた。

夏侯覇の馬だけではなく、前面にいた曹操軍の馬も、

龍の咆哮に怯えきって後退りし始めていた。

「元譲、一旦退くぞ!!」

そう言って曹操は馬首を反した。

退き鐘を鳴らすように指示し、曹操が先頭を切って退却を始める。

そこへ張飛の竜巻が響いた。

「待て!!我が蛇矛を喰らえ!!」

その黒竜巻をきっかけに、曹操軍の兵士たちは我先に潰走を始めた。

誰もが、後ろから丸い目玉を怒らせて追ってくる黒龍の姿を想像したのだ。

実際の張飛は長坂橋上で待機している。

だが、一旦取り付いた恐怖心は膨らみに膨らんで兵士たちの心に襲い掛かった。

大混乱が起こった。逃げる兵が兵を突き飛ばし、倒れ込んだ兵の上を兵が走る。

馬は暴れ出して騎手を放り出し、あたり構わず兵士を踏みつける。

張飛の黒竜巻で生じた混乱が連鎖反応を引き起こし、曹操軍全体は大混乱に陥った。

曹操も予想していなかった事態である。

曹操軍は数十里も後退し、劉備追跡を断念した。

劉備軍に討たれた兵士よりも、混乱で死んだ兵士の方が多いぐらいの惨々たる有り様であった。

曹操は苦々しく言葉を発した。

――あぁ、人龍どもにやられたわ!!







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