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張飛と夏侯覇 三国志小説「夏侯覇仲権」18話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




気が付くと、夏侯覇は地面に横たわっていた。

遠くに聞こえる人の絶叫と馬の嘶き。

なんとか首を後ろに振り向けると、自軍が総撤退しているところであった。

「何だ、生きていたのか」

橋の上から張飛にそう声をかけられて夏侯覇は慌てた。

落馬の際に槍は河に飛び込んでしまっている。

佩刀はしていたが、全身を強く打ってしまい身体が言うことを利かない。

「おら、貴様も早く逃げろ」

そう言って張飛は顎で夏侯覇を促した。この場に及んで、何故か普通の声色である。

「情けはいらん!殺せ!」

夏侯覇は倒れたままそう叫んだ。

こうなったからには、せめて一矢報いて死にたい。

だが、この身体では難しい。それができないのなら、さっさと死にたい。

張飛はその言葉を無視するかのように、小手をかざして曹軍の退却ぶりを眺めていた。

「殺せ!私情を挟むな!!」

夏侯覇が繰り返す。

「やかましい!早く消えろ!」

張飛はぎらりと足元の若者を睨んだ。だが、蛇矛を振りかざそうとはしない。

「どうして殺さぬ?!」

河の流れ。風の音。張飛からの言葉はない。

「どうして殺さぬ」

声が静かになった。やはり、河の音だけ。

「――どうして、殺してくれないのだ?」

哀れな声。すると、面倒になったのか張飛はぶっきら棒に答えた。

「人を殺すのが目的ではない。俺は俺の、貴様は貴様の仕事をした。

それだけだ。さぁ、行け!邪魔だ!!」

夏侯覇は驚いた。この張飛はそんなことを口にする男だったのか。

戦を好み、殺戮を快楽するという巷の噂とは違う。

彼が敵を討つのは責務からであるのか。

思わず本音が口を突いて出た。

「――玉思は無事なのか?!」

「ん?貴様は誰だ?」

初めて張飛は夏侯覇を直視した。眼の色が違う。

「夏侯覇仲権。玉思の兄だ。以前、平頂山の砦で会った」

「おぉ、言われてみればあの時の少年ではないか。見違えたぞ」

張飛の表情も幾分か和らぐ。

「教えてくれ!玉思は無事なのか?」

夏侯覇の口からは本音が止まらなかった。

「遠くに疎開させてある。安心しろ、ここにはいない」

はっきりと張飛が答えた。

それを聞いた夏侯覇は随分と気が抜けたように見えた。

次は弱々しい声しか出なかった。

「玉思の兄と知って殺さなかったのではなかったのか?」

それを聞いた途端、張飛の表情がいつもの戦場のものに変わった。

髪の毛を逆立てて、獅子のような口を開いた。

「なんだ?!ここは戦場だぞ!そんなことは関係ない!

おい、玉思の兄貴。貴様にもまだやることがあるのだろう。

俺にもある。それをやり遂げるんだ。さぁ、行け!邪魔だ!何度も言わすな!!」

口調は乱暴だったが、夏侯覇は伝わるものがあった。

深く頭を下げて言った。

「かたじけない!」

ふらふらと立ち上がり、夏侯覇は歩き出した。

周りで逃げ惑っていた馬の轡を何とか掴まえると、乗って走り出す。

夏侯覇二度目の長坂坡駆けである。

道行くほどに夏侯覇の胸は痛んだ。哀れな兵の骸が散乱している。

馬の蹄の痕跡。死に切れないのか、まだかすかに手足を動かしている兵もいる。

折り重なるようにして死んでいる兵士たちを見れば、

退却の混乱で死んだ者であるということがすぐに分かった。

――全て自分のせいだ!

自分の軽率な行動が、善良な彼らを死に追いやってしまったのだ!

それも武人として堂々たる心ではなく、張飛への嫉妬という個人的な気持ちを

出してしまったことがこんな最低の結果を招いてしまったのだ!

恥を知れ、夏侯覇よ!貴様は将として失格だ!博望坡での惇伯父の教訓があるのに!

おい、子雲!俺は将としての責務を軽く考え過ぎていたぞ!

俺は誤った!

玉思の約束はもちろん大事だが、

今の俺たちはそれ以上に大切なものを抱えていたではないか!

多数の兵の命を預かる夏侯家の将としての責務だ!

あの猪武者の張飛ですらわきまえていたのにこの俺は!

子雲!子雲!俺は間違っていた!

夏侯家の将として俺たちが戦場に出る限り、玉思のことは二の次にしなくてはならない!

私情を挟んだ結果がこれだ!

あぁ、誤った!俺は責務の意味を取り違えた!!

慚愧に耐え切れなくなり、思わず夏侯覇は天を仰いで長坂坡を駆けた。







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