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夏侯覇と長坂坡 三国志小説「夏侯覇仲権」19話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




自軍に追いつくと、陣頭に夏侯惇が立って兵士に指示を出しているのが見えた。

戻ってくる夏侯覇の姿を見つけると、夏侯惇は駆け寄ってきた。

「覇!よく無事で戻った。心配しておったぞ。

よいか、勝敗は平家の常だ。恥じるな。本当に、よく無事で戻ったぞ!」

いつもより口数多く、無理矢理言葉を重ねるように夏侯惇はそう言うのであった。

「私のせいで、私のせいでこんな有様に……」

俯いてそう言う夏侯覇の肩を、夏侯惇は力強く叩いた。

そして、少し声を震わせて怒鳴るように言った。

「おい、仲権!そんなことはどうでも良い!

それよりもな!恩が死んだぞ!子雲が討ち取られたんだぞ!!」

――耳から流れてきたその音の固まりは夏侯覇の時間を停止させた。

「趙雲だ!敵将趙雲だ!関羽・張飛に比肩する武将だぞ!」

そう言う夏侯惇の目には薄く涙が光っていた。

興奮して顔面が真っ赤になっている。

ゆっくりと、夏侯覇は地面に両膝をつく。一筋涙が流れると、それが止まらなくなった。

戦場にいることを忘れ、武人であることを忘れ、将であることを忘れ、ただ泣いた。

理由はなく、意味はなく、ただ無心に泣いた。

そんな姿をしばらく見下ろしていた夏侯惇は、突然夏侯覇の胸倉を掴んで持ち上げた。

「仲権!見ろ!」

夏侯惇は片手で己の眼帯を取り、眼球のない空洞の左眼を夏侯覇に見せ付けた。

「よいか!!人は哀しみを背負って生きるものだ!

何だ、この程度のことで!どんなことでも受け止められるだけの強い心を持て!

仲権!よいか!仲権!!」

夏侯惇は吠えた。狂虎のように吠え立てた。

自らをも襲う哀しみを振り払うかのように、夏侯惇は吠えた。

その時、伝令が来て長坂橋が燃やされたということを告げた。

それを聞いた夏侯惇は冷静に笑うと自軍に攻撃準備を命じた。

「聞いたか、仲権!橋を燃やしただと!

橋向こうの伏兵は偽物だったぞ!劉備にはもう碌な兵力は残されておらんわ!

突撃だ、突撃だ!!」

夏侯惇は軍に号令をかけ、夏侯覇を引っ張って先鋒隊の指揮官に任じた。

そこへ曹操が馬を飛ばせてやってきた。

「元譲!聞いたか、張飛が長坂橋を燃やして逃げた!

伏兵がいるならば橋は燃やさん。行くぞ、突撃だ!」

曹操も同じことを言った。全身から覇気を溢れんばかりに輝かせている。

長坂橋の敗退の影響は見えない。既に気持ちを切り替えていた。

「おう!聞いたぞ!用意はできておる!もう突撃していいか!」

「さすがだな、元譲!鐘を待て!――覇よ、貴様も続け!よいな、元譲!」

曹操は視界に捉えた夏侯覇の姿に眉も動かさず声をかけてきた。

長坂橋での安否については触れることはない。

存在を認識したというその一言で充分だったのだろう。

「丞相!子雲が……子雲が討たれました!」

だがその夏侯覇は見苦しかった。

動転を隠せず、切羽詰った声で曹操に言った。

曹操はあくまで普通に返事をしただけだった。

「是非もない!覇、貴様も倚天の剣を与えられるほどの活躍をせよ!

元譲、鐘を聞いたら真っ先に突っ込め!行くぞ!!」

そう言い残すと、曹操は本陣へ戻って行った。曹操の到着を待って、曹操全軍が動く。

曹操の何気ない一言は夏侯覇の心に、すっと入り込んできた。

抵抗なく、ごく普通の言葉を耳にするかのように滑らか、穏やかに心に入ってきた。

すぐにはその真意が分からなかったが、間もなくゆっくりと、全身へと滲み出してきた。

夏侯覇は正気を取り戻した。

――そうだな、子雲。是非もない。そう、戦場であれば是非もない。

是非も、ない。ここは戦場、俺たちは武人だ。

私情を挟むようなちっぽけな将では責務は果たせない。

夏侯覇はすぐさま部隊に指揮し、鐘が打たれるのを聞くと先陣を切って突撃した。

焼け落ちた長坂橋まで来ると、部下に橋作りを号令し、

一刻も惜しいとばかり自ら木材を運んで橋を架けた。

橋が出来上がると、また自ら先頭に立って劉備軍を追撃した。

――なぁ、子雲。俺たちは小さいことに拘ってきたようだ。

俺たち将は、多くの兵士たちの命と、その家族の生活を背負っている。

その責務の大きさは、俺たちの約束の大きさよりも大きいものだったぞ。

俺たちは夏侯家の将である限り、やらなければならないことがある。

最も大きなものを見失っていたようだ。

個人的感情によってその大きなものを崩壊させるわけにはいかないよな!

ただな、子雲。あの日お前と交わした約束を忘れるわけでもないのだ。

約束は決して忘れない。決して、忘れない。

なぁ、子雲よ。その両方を抱えて、時にはその矛盾と戦い、

時には片方に目をつぶってまで生き続けるのが人生ではないのか。

それを知らなかった俺たち二人なのに、

どうして俺だけが生き長らえてそれを悟り、お前だけが死んでしまった?!

それもまた、是非もないことだろうか。

青釭の剣を背負って馬を寄せてきた子雲はもういない。

子雲がいないのならば、この俺がしなくてはならないことがある。

次に夏侯家を守るのはこの夏侯覇仲権だ。

それが俺の責務であるのだ。

夏侯覇は駆けた。これが三度目の長坂坡駆けである。

それは、遂に責務の大きさを知った責務一大男の長坂坡駆けであった。







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