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夏侯覇の蜀亡命 三国志小説「夏侯覇仲権」20話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




――雨。暗い雨。夏侯覇は想う。

あれから四十年、俺は生き続けてきた。

四十年間。その長い年月は人という人を去らしめ、

世界という世界を変化させるに充分な時間であった。

英雄曹操は病没し、その後を追うかのように惇伯父は逝った。

父はそれ以前の蜀との戦で討ち死を遂げている。

関羽・張飛・趙雲も最早この世の人ではない。

中原を輝かしく彩った英雄たちは一人また一人と、時代から姿を消していった。

どうやら夏侯家は魏にいられなくなってしまったようだ。

司馬懿ほどの智将が叛乱した以上、包囲網は十二分に張り巡らされていると思っていい。

許都にいる我が一族の安否は既に司馬懿の掌中にある。

俺がこの人生を懸けて築いてきたものが、今はなるようにしかならない状況になってしまった。

名門夏侯家の家長を引き継いだのは確かにこの俺だ。

四十年間、俺は夏侯家を守ってきた。

司馬懿のことがなければ、俺はこのまま夏侯家を守る責務に命を捧げていたことだろう。

惇伯父や父がしたように、俺も俺の家庭を持ち、

子を産み、子弟を育て、夏侯家の存続を優先させてきた。

そして、魏の将軍としての責務を一身に背負ってきた。

将として、夏侯家の家長として、責務を重んじること鉄石の如しと、

自らに言い聞かせ、周囲からもそう言われてきた。

四十年というと人一人ほぼ全ての人生に相当する。

家名のため、将としての責務のための今までの人生に、自分自身のための時間は必要なかった。

子雲がいなくなってからの四十年のなんと単調で、変わり映えがなく、退屈な時間であったことか。

それもこれも全ては三度の長坂坡駆けで背負った責務のためと思い、俺は真っ向から受け入れた。

俺を支えてくれたものがあった。

平凡な四十年を生きながらえるために必要とし、一人心の奥でしがみついていたもの。

たとえ一時でも本物の愛情を誰かに注いだのだという確かな思い出さえあれば俺は生きてゆけた。

あの女性との思い出があった。だから俺は生きてゆけた。

だがな、夏侯家はもう魏にいられなくなってしまったのだ。

俺はどうして一族と離れた土地で一人残ってしまったのだろう。

一族の元にはもう戻れないのだ。俺には何も無くなってしまった。

――ならば、俺は俺自身で生き方を選んでもいいだろう。

俺にはもう家名はいらない。

夏侯家の名がいらない以上、将としての責務も放棄する。

こうなっては是非もない。もう、いいだろう。

なぁ、子雲。俺は四十年間、責務を果たし続けてきた。

――もういいだろう?

司馬懿のことを聞き、俺の人生に家名も責務もなくなったと知った時、

俺は何を思っていたのだと思う?やはり玉思だった。玉思のことだった。

俺は、遠い昔に見た玉思の姿をずっと愛し続けてきた。

心の中から、この思い出だけは消し去ることができなかった。

きっと、実際に逢ってしまえば普通なのだろう。

この偶像は、幼い頃にだからこそ植え付けられてしまった、本来存在しない幻なのだろう。

今の家庭の方が大切なことは間違いない。

しかし、俺はそれを承知の上で想いを止められない。

己に嘘はつけない。幻と知っていても、この四十年間ずっと想い続けてきた。

誰にも打ち明けることができなかったが、ずっとそうだったのだ。

俺はずっとそうだったのだ。それが俺の根底を成す、偽らざる本心であった。

最早一族も責務もないとなった時、

俺がこの想いに賭けてみたくなったのはごく自然の流れだったと思う。

確かに馬鹿げている。それは承知の上だ。

俺はな、こんな勇気は初めてだ。

惇伯父や父を継ぐ猛将と呼ばれるようになって久しいが、

こんなに勇気を出して行動するのはまるで初めてのことだ。

なぁ、折角の機会だ、人生に悔いは残すものではない。

これより俺は夏侯家の名を捨て、一人の男として生きる。

後世の人々は俺を裏切り者と呼ぶだろう。

それを否定することはしない。

だが、俺の中で既に夏侯覇という名前は存在しなくなっている。

これからは、愛する女を守るただ一人の男として生きる人間になる。

既に責務からは解き放たれた。彷徨っていた想いを貫く、裸の人間となる。

長坂坡以来、俺は封印をしていた。

玉思を守るという子雲との約束は、心の中の籠に閉じ込めた鳥だった。

鳥はずっと籠の中に入ったままで生きていた。

時には大人しく眠り、時には暴れ、時には羽を広げようとした。

俺はその籠を責務という厚い壁で封じ込めてきた。

しかし今、俺はそれを解放した。

四十年もの間に鳥はくたびれ、老い、飛び方を忘れてしまったのだろうか。

約束は風化してしまったのだろうか。

いいや、そうではなかった。

空気に触れると、鳥は見る見るうちに輝きを取り戻し、かつてのような情熱を湧き上がらせた。

すぐさま飛び立つ用意を整えてくれた。

玉思はまだ生きている。

張飛との間に二人の娘が生まれ、その両方とも劉禅の后となったと聞く。

皇后の母ともなれば安心なのだろうが、

張飛亡き今、蜀に玉思のことを全身全霊で守る者はいない。

思えば、征西将軍に固執したのは父の敵討ちをしたいという理由だけではなかった。

いざ何かが起こったときに真っ先に蜀へと乗り込むことが叶う地位だったからだ。

子雲、お前ならば分かるだろう。

成都に足を踏み入れる最初の魏の男はこの俺でありたかった。

真っ先に玉思を保護するためだ。

子雲、まるで長坂坡のお前だな。

今回のことがなくとも、やはり俺は玉思を守るという約束を

忘れることができない人間だったのだと思う。

これからは俺が直接玉思を守ろう。己の命を懸けて玉思のことを守り続けてみせよう。

子雲、お前の分まで俺が守ってみせる。

そのために、老体に鞭を打って俺は蜀を目指す。

子雲よ、妙なものだ。俺は今、わくわくしている。

四十年間責務を守り続けるなかでいつしか感情の高低は失せていった。

毎日は平凡の連続で、働くことに人生の大部分の時間が費やされ、

束の間の休息となるはずの家にいても、家長としての責務があった。

生きることの意味は考えてはいたが、

目の前にある責務につい気を取られ、四十年間が過ぎていった。

そんな俺が、これからの残り少ない人生にわくわくしている。

こんな新鮮な気持ちはいつ以来だろう。

「――仲権お兄様。毎回、この子供っぽい呼び方でついつい呼んでしまいます。

お互いずいぶんな歳になったのに可笑しいですよね。

すっかりご立派になられた貴方に対して失礼なことでしょうが、

わたくしにとってはいつまでも仲権お兄様と、そして子雲お兄様でいてください。

長い人生、まだまだ続くようですが、

わずかな歳月でも夏侯家で一緒にいられたことはわたくしの大切な思い出です。

最近、あの頃をよく思い出します。

みなさん、本当にわたくしのことを愛してくれていたのですね。

玉思は幸せでした。

仲権お兄様もお身体に気をつけて。また書きます」

玉思、玉思よ。

あれから四十年間、たまに届く手紙はいつも俺を家庭との狭間で悩ませていた。

この気持ちが家庭への裏切りではないと、

そうはっきり思えるようになるまで随分と時間がかかったものだった。

お互い立場に壁があったが、それでも手紙を書き続けてくれることが純粋に嬉しかった。

叶わぬ約束でも、なんだか無性に嬉しかった。そ

れがこの人生の最後で変わるだなんて思いもよらないことも起こるものだ。

――俺はずっと思い続けてきた。

人生では、生き続けることが大切なのではないだろうか。

形はどうであろうと構わない。とにかく生き続けることが、大事だと思う。

生きていても叶わない夢ばかりだ。

生き続けていても良いことばかりがあるだなんて誰も思っていない。

ただ、生きてさえすればきっと叶うことがある。

生きてさえすれば、きっと逢える。四十年ぶりに、玉思にも逢える。

人生は、生きてこその人生だろう。形振り構わず生きてこそ、叶うことがある。

そして、子雲。生きていれば俺はきっとお前にも逢えると信じている。

ここからは責務一大男夏侯覇としてではなく、

子雲や玉思と無邪気に遊んでいた仲権としての人生だ。

生きてさえいれば――きっと逢える。仲権は微笑んでいた。

少年のもののように柔らかな、安堵の微笑みであった。

「この峠を越えれば蜀だぞー!」

先導の兵士が叫んだ。

仲権は馬を進める。間道の森の合間から、遠くの小さな灯りが見えた。

この山を越えれば漢中。蜀の領地だ。

(――あぁ、玉思。あぁ、子雲。僕は逢いに来たよ。

三人で狩りをしたあの日のままの仲権がここにいるよ――)

仲権は思わず二人に呼びかけていた。

歩き続けて、夜が明ける。薄明かりが差し込んでくると、遠くに武都城が見えた。

その美しい輪郭は、幼いあの頃に三人で見た許都城のようだった。







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