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劉備は英雄 三国志小説「夏侯覇仲権」9話

投稿日:2003年3月15日 更新日:




――どうも、あの関羽という男は気に入らない。

それが最近の子雲と仲権の口癖だった。

いや、この二人だけではなく、曹操軍の将兵が軒並み口を揃える言葉だったに違いない。

「あの過剰な歓迎ぶりは一体何だ!それこそ三日おきに小宴会、五日おきに大宴会だぞ。

それがもうどれだけ続いていると思っている。

それにな、関羽が馬に乗ってどこかに行こうとするたびに丞相は金を与えているそうだ。

帰ってきて馬を下りれば銀だ。もうやっていられん!」

子雲の印象は殊の外悪かった。

「そうだな、子雲。与えられた邸宅も降将のものとは思えないほど豪華だと聞くし、

錦の戦袍や美女十名まで贈られたとのことだったな」

「一番許せないのは、それを少しも喜んでいないかのようなあの素振りだ!

喜びの涙でも流せばまだ可愛いものの、あの長髯はいつもうわべの礼辞だけだ!

これが許せない、俺には絶対、許せないぞ!!」

「張遼将軍とは雲泥の差だな。

どうして、あんな男に曹丞相は熱を上げているのか。僕にも分からないことだ」

仲権も不満だった。

関羽は一騎当千の勇を備えた将だと聞くが、曹操軍にも勇将中の勇将は数多いる。

ましてや、関羽はあの裏切り者劉備の義弟で、

敗軍の将として先日曹操軍に降ってきたばかりの男なのだ。

どうしてこうも待遇が違うのか。

同じ降将でも、元呂布軍の張遼は己の立場を知ってか

謙虚に振舞ったことで、今や誰からも認められる曹操軍の一将軍となった

。しかし関羽は、表面上は礼を保っているように見えるが、

その心根は曹操すらも相手にしていないかのような感じが見受けられるのだった。

明らかに、関羽に対しての曹操の行動は常軌を逸脱していた。

それは降伏を受け入れるときから不可解なものであった。

呂布によって小ハイ城を奪われた劉備は関羽・張飛の二義弟と共に曹操軍の客将となった。

客将といえば体裁が良いが、実際は呂布に敗北して行き場を失い、

曹操の足元に逃げ込んできたに過ぎない。

要は流浪の軍である。曹操はそれを暖かく迎えた。迎えてあげた。

曹操は劉備を高く評価していたのである。

劉備には軍を率いる才能はない。治世の才もなければ、策略の才もない。

ただし、人と人を結び付ける能力は抜群であった。

それは、天下無双の二義弟を旗揚げ以来ずっと側に居させたことに象徴される。

これまで哀れな敗戦と不遇な転地の連続であったにも関わらず、関羽と張飛は劉備の側に居続けた。

劉備の人徳のなせる業であった。

表向きの劉備は、今という時代を知らぬ愚直な仁君である。

旗揚げ以来、劉備は己が漢王室の流れを汲む者であり、

掲げる大義は漢王室復興だということを一貫して主張してきた。

事実、曹操の元に来てからは帝への拝謁が叶い、皇叔として認知されてもいる。

だが、戦乱の時代にそんな建前はどうでもいいのである。

許都の一兵士でも、田舎の一農民でも、今がそんな肩書きにこだわる時代でないのは知っている。

乱世では力が全てである。既に漢の皇帝に権力はなく、その存在は亡骸に近い。

実力で丞相の地位に登りつめた曹操が、現在の中華を指揮する覇者である。

劉備もそれを重々承知の上であった。

劉備は軍や策に暗いが、世間には明るいのである。

それもずば抜けた嗅覚を持っていた。

この戦乱の時代では、力が正義である。

力なくして生き延びることはできない。

その意味で決して自分は先駆者にはなれないことも劉備は知っていた。

ただ、いくら戦乱の世とはいえども大義を欠かすことはできないのも事実であった。

力だけで生き延びてゆくことはできない。

それはあの呂布の破滅によって火を見るよりも明らかだ。

漢皇室の血を継ぐ劉備が、漢王朝の再興を目指す。

劉備の掲げる大義は誰が聞いても筋が通っていた。

その分かりやすさが誰からも理解と同情を引き出していた。

劉備を否定する者は誰もいなかったのである。

曹操の大義は、朝臣である曹操が漢の献帝を助けて漢王室再興を図るというものである。

それはそれで筋は通っているのだが、劉備のものと比べた時の見劣りは否定できない。

劉備は己が善人中の善人であるという印象を徹底させるために、謙譲の仕草を各所に見せた。

献帝と初めて謁見したときに、

遂に一族の者がめぐり逢えたとばかり大いに泣きはらしたことなどがそうである。

見事な喧伝術であった。

その結果、大衆が劉備に抱く印象は劉備の狙い通りとなった。

彼の不屈の魂は尋常ではない。

いくら踏みにじられてもまた立ち上がろうとする、その心が強かった。

これまで劉備は公孫瓚・陶謙・呂布・曹操と、それぞれの元で客将に甘んじてきた。

この後にも袁紹・劉表・孫権の客将となり、あるときは共に戦い、

あるときは彼らを裏切り、そして最後には大成して蜀を建国する。

劉備の唯一の拠り所は中山靖王劉勝の末裔と称する家系であるが、

実はそれすらも怪しいものであった。

なにせ劉勝は好色で知られ、様々な女に百人以上の子供を産ませているのだ。

確かに同じ劉姓を名乗っている以上その可能性は否定できないが、

彼の根本はつまり自分自身の才覚だけであった。

幽州涿県楼桑村の一庶民であった彼が、人生の最後には蜀の皇帝にまで登りつめる。

劉備は英雄であった。

彼のしたことは遠回りのようにも見えるが、結局そうではなかったのだ。

明確な大義を有し、不屈の心を持ち、人心を掴むことができる劉備だからこそ、

成し遂げることができた蜀建国という偉業である。

曹操も大義が何であるかは知っていた。

この後いくら勢力を拡大しようとも、彼は自ら皇帝を称することをしなかった。

あくまで漢の皇帝の命を受け、各地を討伐するという大義を掲げ続けたのである。

賢明な曹操には分かっていた。

一旦己が皇帝を名乗ってしまったが最後、各諸侯や豪族が団結して

己を攻めてくる絶好の理由となることを。

曹操の客将となった劉備だが、いつまでも曹操の下に甘んじる人物ではない。

ある時、献帝が皇后の父である董承に曹操討伐の密命を出した。

献帝は曹操の天下を良く思っていなかった。

いつしか、自らの手で漢王朝を再盛させようと望むようになっていたのである。

もっとも、それは己を知らぬ者の取った暴挙ではあったのだが。

人は良くも悪くも思い上がる生き物である。

時に自信に繋がり、時に求め過ぎる。

李・郭軍に追われ破衣のまま曹操に保護された時のことなど、

最早献帝の意識からは欠落しているのであった。

董承は皇叔である劉備に目をつけ、曹操討伐の連判状に加えようとする。

いずれは曹操を裏切るつもりであった劉備は署名した。

しかし、曹操は董承の行動を察知していた。

また、劉備が参画していることも薄々は見抜いていたのである。

劉備もそんな曹操の気配に気が付く。

そして、寿春の袁術討伐という恰好の名目を作って許都を去ることに成功する。

袁術を討った劉備は、そのまま軍を率いて徐州城に立て籠もり造反した。

すぐさま冀州の袁紹に使いを出し、共同して曹操を討つ約定を取り付けた。

幽州の公孫瓚を破った袁紹は今や冀・青・幽・并の四州を治める最大勢力であった。

袁家は四代続けて三公の高位者を輩出した名門で、袁紹自身も傑物との定評がある。

また、曹操とは幼い頃に悪友同士として育ってきた仲でもあった。

この劉備の狙いは正確なものであった。

曹操と対等に戦うことができるのは今や袁紹しかいない。

袁紹もいつかは曹操を討たなければ覇業が遂げられないことは承知していた。

これを機に、とばかり曹操討伐の大軍を興す。







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