文学的な

三四郎とストレイシープ、夏目漱石の青春文学、美禰子と迷羊

青春文学 初恋で若者が無力ながらも成長していく過程がテーマ

夏目漱石の「三四郎」と、島田荘司の「夏、19歳の肖像」を比べてみる。

どちらの作品も、若者が恋におちるなかで、成長してゆく過程を描いた青春文学である。

まずはテーマでの共通点を挙げてみよう。

いずれも初恋をテーマに採り上げている作品であり、つまり女性の理想像、処女性を崇敬している。

どちらの作品でも主人公とヒロインの恋は結局結ばれない。

これは、若さの無力さ、無知さをテーマとしているからだ。

また、主人公の男性だけではなく初恋の相手も

本当は自分が一番進みたかった道を進むことができず、別の道に流される。

これは、人の意思や人智を超えた大きな人生の流れがあることを示唆しようとしたことで共通している。

テーマでの違いがある。

三四郎では故郷を懐かしむ姿を散りばめ、現在の暮らしのなかで

故郷という存在がどこに収まるかを模索することがテーマになっている。

島田氏の話では故郷についてはテーマにしていない。

また、三四郎は初恋の相手以外の人にも興味を覚え、その人たちの暮らし方や人生にも謎を感じる姿があるが、

島田氏の作品では初恋の人のみにスポットをあて、たった一人だけのことにテーマを集中している。

三四郎は田舎から都会に出てきたばかりの青年だから東京の街や東京の人間たちにも新鮮さを感じるが、

その中でも最大の謎を感じたのが恋愛である、という形で恋愛をテーマにしている。

ストレイシープ・迷羊を三四郎と美禰子に投影させた。

島田氏の作品の主人公は、もともと都会の人間だから東京の街にはなにも感じることはないが、

そんないつもの街中で突然恋愛が芽生えることで、

恋愛に対する興味を飛躍的に大きなものとし、一転集中した恋愛をテーマとした。

作品の視線・方法にも共通点がある。

まず、女性と触れ合うことを通して人生成長を遂げる若者を描いているという両方の物語で最も基本的な筋で一致している。

また、三四郎は割合気軽に借金や金策をしたり、

島田氏の主人公はもらった札束を投げつけたりなど、金に無頓着なシーンを出すことによって、

金よりも別のことを追い求める若者というイメージをアピールするという方法も同じだ。

主人公と結ばれなかった女性は、それぞれ本当は幸せなはずなのに心の中で後悔をしている、

という姿を描くことによって、男性と女性とお互いのやりきれなさを演出する方法も共通している。

三四郎とストレイシープ

一方、違う視線や方法がある。

三四郎では初恋の相手と途中ではうまく結ばれそうな予感をさせるが、

結局は相手の女性が慣習やしきたりの色が強い結婚に走ってしまうという手段をとっている。

これはこの当時の時代背景を投影させた方法ではあるが、その視点からは島田氏の物語は作られていない。

島田氏はあくまで現在であり、個人の意思をつきつめている。

三四郎では、身辺に起こる様々な出来事に対して三四郎が自ら解決へと進んでいく展開にはしていなく、

三四郎自身ではなく周りが動くことで話を進めている。

しかし、島田氏の作品では主人公自らが動く展開によって話が進む。

主人公の行動は正反対といってもよいぐらいだ。

三四郎が持つ世界への見方は、己がエリート学生だったからか、世間を卑下している。

島田氏の主人公は正反対で、己の若さや無力さを知り、世間よりも自らの未熟さのほうを嘲っている。

どちらも若者にありがちの姿ではあるが、ここは両極端の若者を描くことになっている。

人物の性格や生き方にも共通点が見られる。

まずは両作品とも、若い主人公同士であるので人生に対して無知である。

無知ながらもそれにも負けずに人生を進んでゆく生き方である。

そして、これも初恋の者同士であるからか、女性に対してひどく臆病である。

女性に対して謎の部分を多く感じている。全体を通すと、

両者は若いながらも若いなりに己の人生を固めようと躍起になっている若者の生き方ということで基本的な共通点がある。

一方、性格に大きな違いもある。

三四郎は人生経験に乏しいながらもエリートであることを鼻にかけ、自信家だ。

島田氏の主人公は己の無力さを嘆き、自信がない。若者の自信の描き方が違う。

三四郎は自ら行動して人生を変えるという意欲がない。

与えられた人生をそのまま受け止めてしまうという人間だ。

他方は、自ら動く意欲があり、積極的な人間である。

若者の情熱の描き方が違う。

三四郎はエリートであるが己に絶対な自信を感じるものを持ち合わせていない。

島田氏の主人公は、自分に自信はもっていないのだが、バイクだけなら誰にも負けない自信を持っている。

これは、大きな違いである。

若者が何に夢中になるのか、若者に何があるのか、それに対する著者の考えが違うのだ。