鎌倉長谷の大仏が1252年頃にできたことと、奈良の大仏が752年頃にできたことの因果関係を空想せよ。
両者に流れる500年の差、奈良の大仏って本当に老舗なのねと改めて思わせてくれた。
1192年に鎌倉幕府が開かれ、現時の武士たちが鎌倉を新しい都とし始めてから60年後。
国力を内外に誇示するために、大きさを伴った鎌倉長谷の大仏が企画されたのだろう。
浄光という一僧侶だけが催したものとは思えない大きさなのだ。
11.39mが鎌倉長谷の大仏の像高で、奈良の大仏よりは5m近く背が低い。
顔つきが奈良の大仏と異なるのも気になるね。
鎌倉時代に流行していた、中国の宋の文化を取り入れたのが鎌倉長谷の大仏だと。
鎌倉武士の美学は巨大にすることだけではなかったのでしょう。
大きさは誰にも分かる普遍の価値観、しかし鎌倉長谷の大仏はそれに特化しなかった。
平面的な顔立ち、猫背、顔が大きい!など、平安貴族が好まない要素ばかり。
大きさだけに流されなかった鎌倉長谷の大仏は、分かりやすい一点集中がないため、
結果として奈良の大仏ほどのヒーローにはなりえなかったが、
お洒落な鎌倉文化が残る鎌倉・長谷の地で、大きく僕たちを迎えてくれる。
高徳院の大仏の大きさが、今の僕たちが目にするサイズ・11mだって思うのは、ちと甘い。
あれだけ大きくて有名で、鎌倉時代からずっと残っている鎌倉の大仏様、しかしその正体は不明だらけだ。
当時の紀行文(トラベル・ブログね)「東関紀行」に書かれていることを見れば、
1242年に完成前の高徳院大仏殿を訪れた人は、「大仏殿と木造の大仏が2/3は完成していた!」とある。
おぉ、これは鎌倉の大仏最大のミステリー!
21世紀に生きるあなたが目にした高徳院の大仏様は、木造ではなく青銅製。
木造を青銅で補強しているのではないよ、つまり高徳院の大仏様は二人いたということ。
影武者・高徳院の大仏様?!
空想すれば、木造の鎌倉の大仏様は原型で、鋳造の鎌倉の大仏様がリアル。
あるいは、木造の鎌倉の大仏様は何かしらの理由で崩壊してしまったのではないか。
しかし鎌倉高徳院のランドマークとなっていた高徳院の大仏の大きさを惜しむ声があって、
壊れにくい青銅製の大仏様が復活した、そんなドラマをイメージできるんだよ。
一方で、1252年の「深沢里」という書物には、青銅製の大仏様の鋳造が開始された、とある。
わずか10年たらずのうちに、完成しては崩壊していった木造の高徳院の大仏様。
失われたものにドラマやロマンスを求めるのは人の常。
あぁ、木造の高徳院の大仏様はひょっとして、身長100mの大巨人では?!
少なくとも奈良の大仏の大きさを上回る、びっくりトールマンかもしれない。
想像して楽しむよ、木造の高徳院の大仏の大きさを。